「嫌なら見るな」の正しい使い方
書く事が無いのと描いたイラストが軒並みゲームのネタバレになるやつで
上げれるものが無くてTwitterも突然死んだ状態になっちゃっている僕です。
今日は日記、というか「嫌なら見るな」という言葉について
素人がふと思ったことを書くだけ、という内容になってます。
「嫌なら見るな」
という言葉、皆さんも一度は目にしたことがあると思いますが、貴方ならこのワードを見たときどう思いますか?(最近は特に良く目にしますが。どこかのエネミーのせいで)
「いや、俺らには見る権利と見た上で批判する権利があるんだよ!嫌なら見るなという文句は間違っている!」という人も居るでしょうし、
「まぁ、確かに嫌なら見なけりゃいい話だわな」と思う人も居るでしょう。
僕は「ぶっちゃけ場合によりけりだろこんなもん」と思います。
例えばの話、これが「嫌いなアニメに対して批判中傷発言をするユーザー」に対する「嫌なら見るな」だったとしましょう。
これは正しいでしょうか?間違っているでしょうか?あなたならどう思いますか?
僕はこの場合の「嫌なら見るな」は間違っていると思います。
無論批判中傷に対しても全てが正しいとは思いませんが。
アニメというのは見られてなんぼなところもあって、最近ではニコニコ動画やyoutubeでも配信されていて、リアルタイムじゃなくても極々簡単に視聴が可能です。
コンビニに買い物を行くよりも気軽に。
それこそ、部屋の一角にある棚から本を取り出すかのような気軽さで。
そこで考えてみてください。
自分の部屋の一角にある棚に、自分が「面白くない、この作品は嫌いだ」と思う作品が何故かしまってある。
文句を言いたくなるし、さっさと売りに出すか捨てるかしてしまいたいでしょう。
なのでこう言います。
「面白くない」「つまらない」「やめちまえこんなの」「アニメ舐めてんのか」と。
そうしたら貴方は見知らぬ誰かにこう返されるわけです。
「嫌なら見るな」と。
ですが、部屋の中にそれがあるわけですから、気になって気になって仕方がない。
文句を言いたい衝動が収まるはずも無く、結局、棚にそれがあるという事実を綺麗さっぱり忘れてしまわない限りは次の話も見てしまい、奇跡的な逆転なければまた文句を言う。
アンチというのはこうして生まれるんだなと思います。
見なくていい物を見ないという事が出来ないのだから、文句をいう事を我慢できるはずもありません。
でも「嫌なら見るな」と言っている人はその作品が好きなわけで、その人がいう文句に耐えられないわけですから、「嫌だったら見るんじゃねーようっせーな。俺はこの作品が好きなんだよボケ!」となるわけです。
全くの無駄、不のスパイラル、不毛なやりとりだと思いませんか?
なので、この場合「嫌なら見るな」と言うのは間違っていると思います。
貴方がその作品を好んでみているというならもうそれはそれでいいじゃない。
アンチなんて気にせず視聴すればいいじゃない。
僕はこの理論だと
「週刊誌に載っている漫画に対して苦言を呈する人」や
「とある人物のブログでの不適切な表現に対して指摘する人」とか
「動画サイトに上がっている動画に対してつまらないと言う人」に対しても
「嫌なら見るな」と言うのは正しくないと思っています。
そう言って素直に「あっそっかぁ(納得)」と言って次から見なくなるアンチがどこに居ますか?
人とはそもそも”正論を言われると一番腹に立つ生き物”です。
とある漫画でも「ハゲな人にハゲと言わないように、デブな人にデブと言わないだろう」と言われていました。
もしそう言われればそれがいくら正論であっても傷つくだろうという事が明確ですよね。
それが少しでも分かり辛くなると、平気で人を正論と言う名のナイフでグサグサ人を刺すような人が最近余りにも多い気がします。
では「嫌なら見るな」の正しい使い方ってなんでしょう?
僕は「そもそもこれを単体で使うこと自体間違っている」と思います。
極論かもしれませんが。
例えば、貴方にホラー映画が嫌いな友人が居たとします。
その友人はある日「この映画凄い面白いらしいんだけど」と言って貴方に一つの映画の事を聞いてきます。
その映画を貴方は見たことがありました。
その映画は、確かに凄く面白いのですが、途中いかにも彼が嫌いそうなホラー要素がある事を貴方は知っていました。
なので、貴方は「確かに面白かったけど、途中ホラー要素があるから、嫌なら見ない方がいいよ」と言いました。
さて、この場合は正しいでしょうか?間違っているでしょうか?
僕は正しい使い方だと思います。
途中から何言いたいんだか良く分かんなくなってしまった。
おやすみなさい( ˘ω˘)スヤァ